しいば寿幸・日本共産党参院比例予定候補の歩いた道(9)一期一会となった寅生さん
椎葉寅生さんを知ったのは、おそらく米軍ジェット機墜落事故の横浜地裁判決がでた1987年3月、10歳のときでしょう。「椎葉という人がすごいたたかいをやった」と両親から聞かされました。
「椎葉」という姓が宮崎県椎葉村を同郷とすることは自覚していたので、幼い兄弟が亡くなった事件の恐ろしさとともに記憶に刻まれました。
大学生のとき、寅生さん家族がたたかった訴訟の歴史的意味を知ります。「米軍人にも日本の民事裁判権が及ぶ」という画期的な判決は「安保の壁に風穴をあけた」とまで言われたほど。日米両政府を相手にたたかったなんて、どんな人だろうか。私のなかで平和の闘士というイメージがつくられていきます。
そして、2015年5月。参院比例候補として、神奈川県日本共産党後援会総会で決意表明したあと、寅生さんと初対面。見た目は闘士というより「ふつう」。話すと「人間の尊厳」をかけて、必死に生き抜いてきた人生の一端にふれることができました。
たくさん話したなかで「寅生さんの顔つきは椎葉村ですね」と言った時のうれしそうな顔は今も忘れられません。残念なのは、この出会いが一期一会になってしまったこと。託された「安保も基地もなくしてほしい」との願いは、私のなかに生きています。
「寅生さんとどんなご関係ですか」とよく聞かれます。生前、寅生さんと電話で話した父が「近所だった。遠い親戚に間違いない」と興奮気味に言っていました。「近所ってどのくらい?」と聞いた私に、「山四つ向こうかな」。みんなで大笑いです。しかし、椎葉村の面積は横浜市と横須賀市を足したくらい。人口2600人ほどですから確かに「近所」です。
墜落をくり返すオスプレイが市街地上空をわが物顔で飛び回っています。事故を絶対にくり返すわけにはいかない――同い年のやすくんと、寅生さんの平和への遺志を継ぐ私の決意です。